聖都、新しいエルサレム
ヨハネの#40665;示#37682;21章9-17節
天#22269;はいくら美しい言葉を#20006;べても表せない、唯一信仰によってのみ、その#23455;像を見ることができる秘密に覆われた世界です。一言で言うと#20385;値#35251;の#22793;化を意味します。新しい天と地は新たにする#22269;であるとおっしゃいました。今日、その同じ天#22269;を聖都、新しいエルサレムとおっしゃいます。
一、最後の災いが終わらないと享受できない都です。
子羊の新婦を見せるという、回復の話を最後の7つ目の災いを手にした天使が語るのは、最後の災いが訪れてから出ないと淫女バビロンが死に、新しいエルサレムが到#26469;し、子羊の新婦、すなわち、イェスの共同#20307;となるのです。災いと救いは常にコインの裏表のようで、エゼキエルが川原で警告と回復のみことばをきいたように、主のみことばをきくことはともかく祝福です。あるアルコ#12540;ル中毒の執事さんは最初みことばが嫌いでした。けれど#24467;順し、適用していたら、一#27497;ずつ新しい天と地が近づいてくるようだといいましたが、嫌でもみことばを#32884;いていたため、回復のみことばも聞こえるようになると信じます。
二、大きく高い山に登らないと#26628;光が見えない都です。
この世で子羊の新婦として生きることは、最初はみすぼらしく見えますが、最後の災いがおわれば、巨大で華やかな天#22269;を見せてくださるのですが、聖の美しさを見るほど、この世を手放し、自分の本質をしれば、主を反射させ碧玉と水晶のように輝き天#22269;を享受できると信じます。信じてからたくさんの葛藤を#32076;#39443;した大富豪の息子であるトルストイや人口色素をぜんぜん使わず官房でも安心して食べられるもちを#40665;#12293;とつくっていたという#39173;屋のように多くの人に感動を#19982;え、大きく高い山に登り主の#26628;光を示さないといけません。私もQTの集まり、QT宣#25945;#20250;、ウリドル#25945;#20250;へと地境が#24195;げられるのが苦難ではなりますが、それが大きく高い山に私を連れて行く天#22269;の#20385;値#35251;ではないかと思います。
三、卑#36046;な人の名前のあるところが聖都です。
#26087;約の12部族、新約の12使途のように主の子はいくら弱くてもみな都に入れられ、その名を輝かしく記#37682;されます。ですが、悔改めない淫女は12の天使が門を守っている聖都に入れません。互いにキズが多く、常に喧#22057;ばかりしていたという再婚夫婦がいました。この夫婦は主に出#20250;ってからも感謝を知らず#39364;#12293;をこねていた妻が我慢の末、怒りが爆#30330;した夫の言葉を聞き、それを認めることができ、適用したことから回復され、いまでは夫の本心を知っているから別に口に出していわなくても胸はいっぱいですといっていました。今からでも自分がどれだけ卑#36046;な人なのかということを悟り、認め、悔改め、聖都に入る皆さんとなることを願います。
四、測る都です。
不#22793;の金の測りざおで入れる人と入れない人を測られます。一万二千丁は24000Kmくらいになります。三位一#20307;の#25968;である3、地の#25968;4、完全無欠の#25968;10の3#26465;で作られた#25968;字で、三位一#20307;である神の完璧で完全なる救いの使役の結果を意味します。救われた人はみな入るという意味です。百四十四キュビトの城壁がそれを覆っているということは人の尺度では限界があり、本質が重要なので、#20869;面の聖なる#28165;らかさがないとすべて無意味であるという意味です。無形の聖殿である私たちが自分を測ることがQTであり、それが聖なることです。初代#25945;#20250;のチェ#12539;クォンノン牧師先生はその生き#27096;がすべてを語るほどにと備わっていたため、#65378;イェス天#22269;#65379;だけで#20253;道できたように、天#22269;の#20385;値#35251;で主のみことばを現す皆さんとなることを信じます。